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「危機の中のリーダー」怒れる国民の一人より

ここ2ヵ月ばかりは行事に仕事にめちゃくちゃ忙しかったのですが、本日やっと一段落し、投稿する余裕がちょっとできました。

ただ、この間の日本の政治状況をみてますと、正直大変ガッかりしています。

「怒れる国民の一人」として物申さずにはいられません。

以下は私の個人的意見であり、やまと鑑定のみなさんとは関係ありません。

今のような危機的状況下でこそリーダーの資質が問われるべきだという意見には大賛成です。平時であれば、多少ダメなリーダーだとしても、それを支える人々がしっかりしていれば、そうたいした問題にはなりません。

危機的状況下でのリーダーと民主制について考えるとき思い出すのは、第二次大戦下、イギリスの首相として同国を勝利に導いたチャーチルです。

1940年まではチェンバレンが首相でしたが、対独伊に対する宥和政策がヒトラーやムッソリーニなどのファシストを増長させたとして批判されました(近年では、宥和政策によって軍備増強の時間稼ぎをしたとの肯定的評価もあるようです)。

独伊の裏切りにより、チェンバレンの宥和政策が破綻すると、後任にはチャーチルが就任し、挙国一致内閣が組閣されることになりました。

チャーチルは誰よりも早く、ファシストとは断固として戦う以外にないことを主張していました。英仏連合軍が敗れ、フランスが屈服した逆境のなかで、イギリス国民はチャーチルの登場を求め、彼もその期待に応え、国民も彼のリーダーシップに応えて逆境を粘り抜き、最終的には勝利をおさめたわけです。

ところが、対独戦が終わって3ヵ月も経たない1945年7月の総選挙で保守党が敗れ、チャーチルは下野しなくてはならなくなったのです。イギリスにとって第二次大戦における最大の功労者が、お役御免と宣告されたわけです。しかも、選挙敗北が確定したのは、ポツダム会談の途中だったため、連合国の勝利に大きく貢献したにもかかわらず、戦勝の瞬間を首相として味わうことなく帰国することになったわけです。

チャーチルのすごいところは、それがイギリスの議会主義、責任内閣制とういものだとして、回顧録などで自らを慰めているところです。なお、チャーチルは「第二次大戦」を最高峰とする一連の著作によりノーベル文学賞を受賞しています。また、何かの本で読みましたが、かつてチャーチルが収監されていたときに、ギボンの「ローマ帝国衰亡史」を取り寄せて、何回も何回も熟読していたことがあったようです。こういう方が歴史から学ぶという人なのだと思います。

イギリス国民は、危機的状況下では強力なリーダーシップを求めましたが、危機が去るや否やより平凡なリーダーと交代させたわけです。この使い分けにこそイギリスの政治能力の根幹があるという学者もいます。この醒めたところが、成熟した議会制民主国家というものなのだと思います。

翻って、今の我が国の状況はどうでしょうか。

原発事故が起こったときに、まず考えるべきだったのは、危険エリアの住民の避難であり(SPEEDIの予測を見ればどのエリアが危険かわかったはず、情報が集約されてくる官邸が知らなかったというのもおかしい、もしそうならそれこそ大問題)、自治体への伝達であり、原発の現地視察などではないはずです(生死も覚悟して頑張っていた現場では迷惑なだけです)。結果、多くの住民を被曝させることになりました。

震災以降をみていると、都合の悪いことはすべて他人に判断を押し付けているように感じます。ベントは東電の判断、注水は自衛隊の判断、法定されていない計画避難地域の避難は住民の判断等々、リーダーとしての自覚はどこにも感じられません。浜岡原発停止要請は英断だと評価する向きもありますが、ある意味何の考えもない方だからこそできたことだと変な意味で評価(?)されていることの方が妥当だと思います。

雑誌に書いてありましたが、今や誰も「首相としての資質」は問題にしていない(みんな知っています)、「人としての資質」が問題にされているのだ、と。

期間限定でもかまいませんので、リーダーシップのある方の出現を望みます。平時であればこの程度でもかまわないとは思いますが・・・・。

そういえば、震災復興構想会議の五百旗頭議長が応仁の乱を持ち出して、首相の資質を今問うべきではない、とういうようなことを、記者クラブで言ったという話がありましたが、歴史に学んだとはいえないピントズレした学者先生だと感じます。確かに応仁の乱によって京都が瓦礫の山となったのは事実ですが、時の為政者が無能でリーダーシップのない人間だったことこそ問題です。

京都は第二次大戦ではほとんど被災しておりませんので、冗談なのかわかりませんが、京都人が「戦後」という場合は、第二次大戦後ではなく、「応仁の乱後」という意味だとの話があります。

恥ずかしながら最近知ったのですが、1945年の5月の段階では、原爆投下目標の第一の候補は京都だったということを知りました。一旦標的からは外されましたが、7月には再び標的の第一候補に復活し、最終的には文化都市が瓦礫の山と化した場合の癒しがたい反米感情も考慮し再度外されたようですが。古本屋さんでたまたま買った、長谷川毅著「暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏」(中央公論新社、2006.2、第7回読売・吉野作造賞受賞)より。日本がソ連に終戦処理の期待をかけ(スターリンにそんなつもりはサラサラないのですが)、裏切られていく様が克明に描かれており、我が国のリーダー不在を痛感します。

それと、応仁の乱当時の将軍は足利義政ですが、意外と菅直人氏との共通項があります。

<ここからは、気分転換で、半分おふざけですのでご容赦ください。>

足利義政→第8代室町幕府将軍
菅直人→民主党第8代党首(1998年以降の現在の民主党)

足利義政→2代前の将軍:剛腕政治家足利義教
菅直人→2代前の党首:剛腕政治家小沢一郎

足利義政→正室:出しゃばりで強欲な日野富子
菅直人→正室:出しゃばりな菅伸子

足利義政→日野富子の大叔母が足利義政の実母日野重子
菅直人→菅伸子の叔父が菅直人の実父菅寿雄

足利義政→長禄・寛正の飢饉発生(1459~1461)、洛中だけで約8万2千人の死者、この最中に花の御所改築、物見遊山にも行く、後花園天皇に諌められるも無視、顰蹙を買う、応仁の乱発生(1467~1477)、京都は瓦礫の山と化す

菅直人→東日本大震災、原発事故発生、住民避難よりも現地視察パフォーマンスを優先、むしろ被災を拡大させる、4ヵ月を経ても震災復旧すら進展せず、内閣不信任案をペテンでかわす、孫正義に煽てられ自然エネルギーに注力、顰蹙を買う

足利義政→有力守護の畠山氏、斯波氏などの家督争いに介入するも、場当たり的対応によりかえって混乱を増長させる、細川勝元と山名宗全の対立もからみ混乱拡大、自らの後継も統御できず、かえって応仁の乱の原因のひとつとなる、和平のチャンスに引退の無責任、リーダーとしての資質及び自覚無

菅直人→首相に就任以降内ゲバに勤しむ、政治は常に場当たり的、官僚機構に取り込まれ国民負担を強いようとする、退任すると見せかけて退任の考えはない、東工大のご学友のサジェスチョンにより原発にストレステストを課す、脱原発総選挙の機を伺う、リーダーとしての資質及び自覚無

足利義政→文化面での貢献大(東山文化)
菅直人→文化面での貢献無、弁理士資格有、自分が利口あるいは正しいと堅く信じ込んでいる※※(知能が足りないのであれば別に国家国民に迷惑をかけませんが、この手の無自覚※※人間が一番始末が悪い、とんでもない愚行を行いかねない、歴史をみれば多くの事例が見いだせます)

<まあ、おふざけはこの辺にします。ご容赦ください。>

結局、義政以降足利将軍は権威だけの存在となり、下剋上、戦国時代へと突入していくことになります。

一方、菅直人氏によって、我が国がどのように歪められ、将来どうなっていくのか、大変憂慮しています。

危機の今こそ成熟した民主国家、かつてのイギリスのやり方に学ぶべき点は多いと思いますがどうでしょうか?

もっとまともで前向きの議論をしたいものです。
怒っても無力感を感じますのでやめます。
明日からまた仕事にがんばりたいと思います。

では(^E^) 怒れる国民の一人より
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『誰が小沢一郎を殺すのか?―画策者なき陰謀―』

今年に入ってから3月末まではあまりにも忙しく、本を読んでいる時間がなかったのですが、ここにきて若干仕事も落ち着きを取り戻しましたので、本屋さんで立ち読みしながら何かおもしろい本はないか探していたところ、

カレル・ヴァン・ウォルフレン著『誰が小沢一郎を殺すのか?―画策者なき陰謀―』(角川書店)

が目にとまりました。

私としましては、若干衝撃を受けるとともに、納得できる部分も多かったため取り上げさせていただきます。

なお、以下については、私の個人的な感想・見解であり、「やまと鑑定パートナーズ」の皆さんとは一切関係ありませんこと、申し添えます。

著者は30年以上にわたって日本の権力構造をめぐる取材・分析を行ってきたオランダ人ジャーナリスト(アムステルダム大学教授)で、過去に『日本/権力構造の謎』(早川書房1989年、官僚機構を始めとする権力行使のあり方を分析し、日本における権力機構の責任中枢の欠如を指摘)や『人間を幸福にしない日本というシステム』(毎日新聞社1994年、官僚主義を打破する改革者として小沢一郎氏を評価、「説明責任」という言葉を広めた、薬害エイズ事件における菅直人氏も賞賛)という本がベストセラーにもなっています。

今回の著書は怪しげなタイトルではありますが、決して変な内容ではなく、極めてまともな明治以降の日本における権力機構の分析がなされています。著者が外国人であるからかもしれませんが、日本にいるとなかなか意識しない観点からの鋭い洞察がなされています。多少の事実誤認もありますが、全体を通しての分析枠組みの中ではたいした問題ではありません。

官僚機構が裁量によって実質的に統治している日本では、暗黙の了解によって成立している官僚・検察・マスコミの「非公式なシステム」が存在するといいます。法が権力システムを制御(普通の民主主義国家はこれ)するのではなく、権力システムが法を支配する国だといいます。既存メディア(大手新聞、テレビなど記者クラブ制度から恩恵を受けているマスメディア)がそれをサポートする役割を果たしており、検察の有罪判決率99.9%は検察が裁判官の役割を果たしているに等しいといいます。

問題は、この暗黙のシステムを脅かす存在(既存の社会体制を変革する可能性のある者)は、スキャンダルによって消されてきたということです。

これは、現在では、小沢一郎という政治家に対する「人物破壊(character assassination)」とでもいうべきメディアの動きと検察の行動を見れば明らかだといいます。これらの動きに対し、異議を唱えての抗議デモ(必ずしも小沢氏を支持するための抗議というよりも、検察とメディアの動きに抗議しているという意味合いが大きいのではないかと推察します)が日本各地で繰り広げられているにもかかわらず、記者クラブ制度に加盟するマスメディアがこれをほとんど黙殺していることも奇異に感じておりましたが、納得できます。

このような一方的な動きのみを見せられている国民は、小沢一郎という政治家の本質(彼のやってきたことの意味、やろうとしていることの意味)とは関係なく、何となく「剛腕でリーダーシップはあるが、悪い政治家」というイメージに誘導されてしまっている気がします。

現在の政治資金規正法が曖昧な部分のある法律だということも問題です。政治家にとっても逃げをうてる部分があるとともに、検察側の解釈次第で事件にできてしまえる部分もあるようですので。

話は逸れますが、織田信長には熱烈なファンがいる反面、絶対的な信長嫌いもいます。その理由としては、比叡山焼討ちや一向一揆弾圧など宗教勢力に対する行動に起因する場合も多いのではないかと思います。ただ、注意深く観察すれば、信長が宗教あるいは信仰そのものを弾圧した史実はありません。あくまで、信長が改革しようとしたことに反対する武力勢力に対する武装解除をしただけでその本質は宗教弾圧とは異なります。現在とは異なり、当時は宗教勢力も武力を持ち、時の権力者もなかなかその既得権に踏み込むことはできなかったのです。得てして「改革者」というものは既存の権益を侵すことになりますのでその反発は大きいものなのだと思います。

野党時代は改革者だと思われていた菅直人氏が時の権力の座に就任したとたんに「非公式なシステム」に飲み込まれ、小沢氏を亡き者にしようとしている光景は、私には異様だと映ります。

ウォルフレン氏のいう「非公式なシステム」は、経済学者の野口悠紀雄さんが『1940年体制』(東洋経済新報社、1995年)の中で、「戦時経済体制(1940年体制)」と呼んだものとも関係があるという印象を持ちました。

以前取り上げたことがありますが、野口さんによれば、「戦時経済体制(1940年体制)」とは、以下のようなものだといいます。

1.財政金融制度
(1)間接金融方式
戦前の日本の産業資金供給は、資本市場を通じる直接金融方式を中心とするものであったが、戦時経済の要請によって、銀行を経由する間接金融方式への移行がはかられた。
(2)金融統制
戦時金融体制の総仕上げとして1942年につくられた統制色の強い旧日本銀行法は、1998年まで日本の基本的な経済法のひとつであった。
(3)直接税中心の税体系
1940年度税制改正において給与所得者に対する源泉徴収などが整備され、現在まで続く直接税中心の税体系が確立された。
(4)公的年金制度
1939年の船員保険と1942年の労働者年金保険制度によって、民間企業の従業員に対する公的年金制度が始まった。労働者年金は、1944年に厚生年金保険となった。

2.日本型企業
(1)資本と経営の分離
革新官僚が推し進めた「資本と経営の分離」が、間接金融方式とあいまって、戦後日本企業の基本となった。
(2)企業と経済団体
戦時中に成長した企業(電力、製鉄、自動車、電機)が戦後日本経済の中核になった。統制会の上部機構が経団連になった。
(3)労働組合
戦時中に形成された「産業報国会」が戦後の企業別労働組合の母体となった。

3.土地制度
(1)農村の土地制度
戦時中に導入された食糧管理制度が戦後の農地改革を可能とした。
(2)都市の土地制度
戦時中に強化された借地法・借家法が戦後の都市における土地制度の基本となった。

現在、制度疲労が問題となり、何らかの改革を要する事項が、意外と多くは戦時経済体制の中で確立されてきたものなのです。戦時体制というものは、極度に官僚的統制が求められる体制です。戦時が戦後となっても、多くの官僚組織は維持されました。戦時と戦後は霞が関においては切れ目なく連続しているのです。

このような強固な既存体制を改革することは並大抵のことではありません。既得権を有する勢力の抵抗は想像を絶するはずです。

このようなものに切り込む「覚悟」は、少なくとも今の菅直人氏にはあろうはずがありません。小沢一郎氏にその「覚悟」があるかどうかはわかりませんが、氏の主張を聞く限りではそのつもりであることを感じさせます。伏魔殿ともいうべき特別会計をゼロベースから見直すと言っておりましたし、記者クラブ制度の見直し、オープン化についてはだいぶ前から前向きでしたし。

ですから「人物破壊」とでもいうべきメディアと検察の攻撃を受けることになっているのではないかと感じます。

そういえば何日か前のニュース番組で、竹中平蔵氏が「すぐ使えるお金が国債整理基金にあるのになぜそれを震災対策に使おうとしないのか」と大塚耕平厚生労働副大臣に質問してましたが、官僚的答弁でかわされておりました。国債整理基金は、本来、発行済の国債に支払う利息を処理する特別会計ですが、いわゆる埋蔵金が表面化して以降、埋蔵金を一般会計の財源とすることを嫌い、財務省管轄下の特別会計の剰余金や繰越金がこの特別会計に移し替えられているようです。

かつて自民党時代、与謝野馨氏はその著書「堂々たる政治」(新潮社、2008年)の中で、いわゆる埋蔵金は、幻想にすぎず、国民を煙に巻く、罪深い議論であり、夢物語であって、何の根拠もなく、伝説の域を出ない、と言っておりました。また、政権交代後は、民主党は倒さねばならない、と常に主張されておりました。ところが、実際、特別会計の中に100兆円近い国家備蓄金(埋蔵金)があるとわかり、2009年度予算以降かなりの埋蔵金が予算に組み入れられている現実があります。驚くことに、その与謝野馨氏は、今年の1月、菅再改造内閣にて、経済財政政策担当大臣に就任しております。埋蔵金は、幻想であり、伝説の域を出ないといっていた政治家が、打倒するはずであった政権にちゃっかりいるわけです。まさに、与謝野氏の言葉をそのままお返しすれば、「幻想の」政治家ともいうべき方が、消費税増税を含む今後我が国の経済財政政策を担当するなど、「夢物語」にしていただきたい気がします。

特別会計については言いたいことが山ほどありますがまたの機会といたします。

では(^E^)

1N(ニュートン)とは? ちょっと一服(^_^;)

最近、知人から事務所ビルの床荷重について聞かれたときの話です。

一般的には、事務所ビルの床荷重は300kg/㎡~500kg/㎡程度と思われますが、知人の会社が所有するビルはやや築年の古いものでしたので、建築の専門家に聞いてみました。

その結果、当時(約20年前)は建築基準法上300kg/㎡だったとのことでした(なお、建築基準法は最低基準を定めたものです)。これは現在もほぼ同じとのことで、現在は2900N(ニュートン)/㎡という表示に変わったとのことでした。

「N(ニュートン)」て何だ?と思い聞いてみました(高校の物理で習っているとは思いますが忘れてしまいました)。

それによると、我々が通常使用している「kg」というのは「質量」の単位で、「N(ニュートン)」は「重さ」の単位とのことでした。

わかりやすい例でいえば、月面では物体の重さが地球上の約1/6になります。でも物体そのものが変化するわけではありませんので、「質量」は変わりません。違いが何かといいますと、「重さ」とは実はその物体にかかる「重力」のことなのです。この力を表す単位が「N(ニュートン)」なのです。

月面の例でいえば、「重力」が地球上の約1/6になるということです。一方、「質量」はその物体を特徴づける量であって、同じ物体である限りは変わりません。「重力(万有引力)」は、二つの物体間に働く引力で、その二つの間の距離とそれぞれの物体の性質とに応じて働く力なのです。

具体例でいえば、地球上で「質量」600gの物体の「重さ(重力)」は約6N(ニュートン)ですが、月面上で「質量」600gの物体の「重さ(重力)」は約1N(ニュートン)ということです。

「重さ(重力)」を「N(ニュートン)」で表すには、「質量」に「重力加速度」〔地球では9.80665m/s2(メートル毎秒毎秒)〕を乗じて求めますので、

1kgf(kg重) = 9.80665N(ニュートン) ということになります。

なお、「重力加速度」は加速度の単位としても用いられており、重力加速度と同じ加速度を1Gと表現しています。

1G = 9.80665m/s2 ということです(ただ、Gは国際単位系(SI)の単位ではありません)。

「建築基準法に基づく政令・告示等における計量単位の国際単位系(SI)移行への対応について」(平成11.9.22住指発499)では、1kgを9.80665N(ニュートン)と読み替えることとされておりました。

現行建築基準法上の床設計用の積載荷重基準は、
・住宅の居室など  1800N/㎡
・事務室        2900N/㎡
となっていますので、
・住宅の居室など  約180kg/㎡(≒1800/9.80665)
・事務室        約300kg/㎡(≒2900/9.80665)
ということでしょうか。

ただ、事務所などでは、重量物を積載しても対応できるよう、最低基準ではなく、4900N/㎡(約500kg/㎡)程度にすることも多くなっているようです。

「床荷重」につきましては、不動産鑑定評価基準上も、「建物に関する個別的要因」の「設計、設備等の機能性」という項目の中で留意すべき事項のひとつですので、建物の鑑定評価をする上では確認すべき事項となっています。

では(^E^)

民主党代表選 ちょっと一服(^_^;)

9月1日告示の民主党代表選を前に、菅直人首相と鳩山由紀夫前首相が昨夜30日の夜、首相公邸で会談し、小沢一郎前幹事長の出馬回避に向け、両氏と小沢氏との「トロイカ」に輿石参院議員会長を加えた体制を重視して、政権を運営していくことで一致した、とのニュースがありました。これによって、小沢氏が出馬の方針を撤回し、対決回避の可能性が出てきました。

でも、私としましては、小沢氏に出馬していただき、堂々と政策で議論していただきたいと思っております。

菅直人首相サイドは、国民世論の動向も味方し、しきりに「こんな短期間に首相がコロコロ変わってもいいのか」といっておりましたが、危機の今、重要なことは、首相がコロコロ変わることによって「政策がコロコロ変わってもいいのか」ということだと思います。

政策は継続して「やりつづけ」ないと成果はでませんし、継続して行われないと資源の無駄使いになるだけで、危機がなお一層深刻化するだけです。首相がコロコロ変わること自体は、政策に継続性があれば、たいした問題ではありません。「政策がコロコロ変わる」ことこそ問題です。

「ローマ人の物語」を15年かけて書き終えた塩野七生さんも、ローマ帝国「危機の三世紀」について言っています。「ローマ帝国も三世紀に入ると、政策の継続性が失われたのである。具体的に言えば、皇帝がやたらと変わるようになった。」「三世紀に入ったとたんに、ローマの軍事力が弱体化したのではない。経済力が衰退したのでもなかった。これらは、後になって襲ってくる現象である。皇帝の交代が激しく、在位期間が短く、それゆえに政策の継続性も失われることによる力の浪費の結果として、生まれてきた現象なのである。政策の継続性の欠如こそが三世紀のローマ帝国にとって、諸悪の根源であったのだ。」と。

また、「危機の時代は、指導者が頻繁に変わる。首をすげ代えれば、危機も打開できるかと、人々は夢見るのであろうか。だがこれは、夢であって現実ではない。」と。

「共和政ローマ」が巨大化するにしたがって、それまでの元老院を中心とする寡頭政ではどうしても立ち行かなくなってしまったときに、塩野七生さんも大好きな「ユリウス・カエサル」が現れます。「見たくない現実も見ることのできる」カエサルは巨大化したローマの国家システムを変えようとしましたが、「見たいと思う現実しか見ることのできない」人々に暗殺されてしまいました。ただ、若干19歳の「アウグストゥス(オクタヴィアヌス)」がカエサルの意志を引き継ぎ、40年以上もの長期政権を維持して、後の「ローマ帝国」を確立することになります。

なお、シェークスピアは、「ブルータス、お前もか」のブルータスを、当時誰もが認める教養人で、潔白、無欲で野心のない「マルクス・ブルータス」(母セルヴィーリアはカエサルの愛人)として描いてますが、これは、ガリア戦役・ローマ内戦をともに戦い、その軍事的才能をカエサルが高く評価していた傘下の幕僚「デキウス・ブルータス」のことではないかという意見の方が多いようです。第一相続人のアウグストゥスが辞退した場合の相続人にはデキウス・ブルータスが指名されておりました。また、カエサルは、セルヴィーリアに頼まれてマルクス・ブルータスにいろいろな便宜を図ってあげてましたが、教養・潔白・無欲・野心のなさでは誰もが認めるこの人をカエサルはあまり評価していなかったようですので。「見たいと思う現実しか見ることのできない」人だったのでしょう。

カエサルには現状の問題とこれを解決する新しい国家のメカニズムが見えていたのだと思いますし、アウグストゥスにはこれを引き継ぎ、確立するための強い意志がありました(軍事的才能はカエサルにははるかに及びませんでしたが、カエサルは、ひ弱そうな青年に、統治者としての才と強い意志を見抜いていたようです)。

後のローマ帝国をみれば、カエサルの見ていたものが正しかったことが証明されます。ローマきっての論客で現在でも著名な「キケロ」も現状の問題は十分に認識していたとは思いますが、「見たいと思う現実しか見ることのできない」部類の人だったのでしょうか、友人関係は維持していましたが、カエサルの考えを理解しようとはしませんでした。カエサルがルビコンを渡り内戦が発生してからのキケロは、これが現在にも名を残すあの弁論家のキケロか、と思うほど情けない行動をとります。責任をもった決断と行動の伴う政治家と弁論家の違いなのでしょうか(なお、キケロの博学ですばらしい多くの論述を否定するものではまったくありませんし、弁護士出身の政治家がみんながみんな案外信用できないというつもりも毛頭ありません。)。その意味では、考えが正しいかどうかは別にして、最後まで発言と行動が一致していたガチガチの共和政派「小カトー」(マルクス・ブルータスの叔父)の方が立派に見えます。

再度、塩野七生さんが言っていたことを引用します。「亡国の悲劇とは、人材が欠乏するから起こるのではなく、人材はいてもそれを使いこなすメカニズムが機能しなくなるから起こるのだ」と。

中世の都市(貿易)国家「ヴェネチア共和国」の歴史を書き、「共和政ローマ」と「ローマ帝国」の歴史を書いてきた塩野さんだからこそ、発言にも深みを感じます。

確かなビジョン、政策の継続、それをやりつづける強い意志、これらが今求められるべきことだと思います。菅直人首相と小沢氏では、だいぶ考えが異なるところもあるようですので、ここは小沢氏に出馬していただき、堂々と政策で議論していただきたいと思っております。そして、主張した以上は、その政策をやり続け、後々の政権にも引き継いでいっていただきたいと思います。

最近、昨年政権交代時の「政治主導の確立」がだいぶ後退してきていますので、今一度国民の前で、民主党の骨太の政策がどこに向かっているのかについて議論してもらいたいと思った次第です。

では(^E^)

消費税の話 ちょっと一服(^_^;)

先の参議院選挙前、菅直人首相のあまりにも無定見かつ無責任で唐突な消費税増税発言に対し怒り心頭に達しておりましたが、少し時間も経ち落ち着いてきましたので、今回は消費税についての話をさせていただきます。

なお、以下の話は、主として斎藤貴男著「消費税のカラクリ」(講談社現代新書、2010.7.20)によっております。また、あくまでも私の個人的な意見・感想です。

まず最初に申し上げておきたいことは、確かに英国、ドイツ、イタリア、スウェーデンなどの付加価値税の標準税率は17%~25%程度と、日本の消費税の税率(5%、但し国税4%+地方税1%)に比べますととてつもなく高い印象があります。しかしながら、各国の国税収入に占める付加価値税あるいは消費税収入の占める割合はどうかといいますと、日本の場合国税になる4%を前提にしますと22%に達しているのに対し(但し、地方税分の1%を考慮するとその割合はもっと増えます)、英国、ドイツ、イタリア、スウェーデンなどは22%~27%程度を占めているに過ぎないらしいのです。なお、上記内容は、経済学者の菊池英博著「消費税は0%にできる―負担を減らして社会保障を充実させる経済学」(ダイヤモンド社、2009年)によっているようです。

なぜこうなるかといいますと、ヨーロッパの付加価値税には軽減税率が採用される食料品や生活必需品が多く、また、医療、教育、住宅取得やこれに関連する不動産、金融など非課税項目も少なくないのに対し、日本の消費税は、非課税項目が医療費や住宅の賃料などに限られ、軽減税率が適用される分野もないままに運用されている結果のようです。

とすると、日本の消費税率がヨーロッパの付加価値税より低すぎることをやり玉に挙げ、一刻も早く同程度の水準に引き上げなければ財政が破綻するという一部の政治家や評論家の主張をそのまま受け入れるわけにはいきません。

まず上記の基本的な認識を踏まえまして、では現在の消費税を安易に引き上げることのどこに問題があるかです。斎藤貴男氏は「消費税のカラクリ」の中で、消費税の引き上げについて、「中小・零細の事業者、とりわけ自営業者がことごとく倒れていく。正規雇用から非正規雇用への切り替えがいっそう加速して、巷にはワーキング・プアや失業者が群れを成す光景が見られることになるだろう。」といいます。一方、「輸出比率の高い多国籍企業の多くは漁夫の利を得る格好で収益を拡大し、景気指標はむしろ活況を示す結果をもたらすかもしれない。」といいます。

なぜ、そんなことになってしまう可能性があるのでしょうか。その「カラクリ」は、価格転嫁できない中小・零細業者、輸出戻し税、人件費と消費税などの問題にあります。現状は税率5%ですから相対的に被害が目立っておりませんが、10%、15%、20%というように税率が引き上げられていった場合には、大きな社会・政治問題になるはずです。以下、具体的に概要を述べます。

まず第1に価格転嫁できない中小・零細業者の問題です。消費税は、国税のあらゆる税目の中で、最も滞納が多い税金です。2008年度に新しく発生した国税の滞納額が約8,988億円だった中で消費税の滞納分は約4,118億円と約45.8%を占めます。これは異様な状況であり、単に悪質業者のせいにできるものなどではなく、どこかに無理のある税制なのではないかということを示唆します。

大企業には価格支配力がありますので、消費税が課税されるとしても下請けあるいは納入業者である中小・零細業者はそれをなかなか価格に転嫁できない実態があります。税額相当の値下げを要求されたら利益を削って受け入れざるを得ないのです。しかも、消費税は事業者がたとえ赤字でも納税が必要です。現状5%ですからまだいいとしても、これが10%、15%、20%と引き上げられていったとしたら、とても耐えられるものではありません。現状でも、国税滞納額の半分近くを占めているわけですから、税率が上がったら悲惨な状況となるのは目に見えています。日本の古き良き自営業者は大きな打撃を受けることになります。

第2に輸出戻し税の問題です。消費税は国内での取引に課税されるものですので、輸出や国際輸送など輸出に類似する取引では免除されます。これは他の国でも国境税調整として行われておりますのでやむを得ない面はあります。ただ、日本は輸出比率の高い大企業が多い国ですので問題がないわけではありません。

消費税は、売上に係る消費税から仕入れに係る消費税をマイナスした差額を納税する制度ですので、例えば、売上のすべてが輸出である企業の場合、売上に係る消費税はゼロですので、仕入れに係る消費税分相当のマイナスになり、結局、仕入れに係る消費税分相当がまるまる還付されることになります。

自分が支払った消費税分が戻ってくるだけなのだから損も得もないではないかと思われるかもしれませんが、上記第1の問題点で述べたことを考えるとどうでしょうか。仕入れ費用が、例えば消費税相当分が値切りされたものだとしたら、結局、自腹を切った下請け業者あるいは納入業者が実質的に税負担しているようなもので、そうだとしたら輸出企業は還付を受けた分が実質的には収益になってしまう可能性もあるわけです。

例えば、輸出比率の高い企業でいえば消費税の年間還付額は以下の水準にもなっています(2008.3月期、地方消費税分1%を含めた5%として推計されたもの)。

トヨタ自動車3,219億円、ソニー1,587億円、本田技研工業1,200億円、日産自動車1,035億円等々の還付があったと推計されるとのことなのです。

上記試算は各社単体での売上げから推計されておりますので、連結ベースであればこの金額がいっそう跳ね上がると思われます。10%、15%、20%というように税率が引き上げられていった場合には、さらに巨額の還付額になることになります。

実際、2008年度における消費税収入(国税4%と地方税1%を合計したもの)が約16兆9,829億円だったのに対し、同年度の消費税還付額は約6兆6,700億円もありました。これは税収に対して40%近い割合です。

斎藤貴男氏も、これは実質的には「輸出補助金」とでもいうべきものではないかといいます。輸出企業は、相手国に付加価値税があれば課税されることにはなりますが、それを前提に価格設定したうえで利益を上げているわけですからあまり関係ありません。

日本経団連が、法人税引き下げとともに消費税の引き上げを主張するのも、穿った見方をすれば納得できます。強者の論理です。

また、所得税の累進税率は緩和され続け、以前は8,000万円超の人が税率75%という時代もありましたが、現在は1,800万円超の人は税率40%となっています。年間所得が1億円の人も1,800万1円の人も税率は同じで、1,000万円に満たない人ともあまり変わらない状況になっています。所得税の所得再分配機能は消失しています。

このような中で、高所得者の経営する大企業が会員の日本経団連が、法人税引き下げは国際競争力の面でまだいいとして、消費税の引き上げまで声高に主張するのはどうでしょうか。巨額の消費税還付を受けている事実を考慮しますとやや納得できない気がします。

第3は人件費と消費税の問題です。消費税法の仕入れ税額控除では、「所得税法第28条第1項(給与所得)に規定する給与等を対価とする役務の提供を除く」とされています。正規社員の給与には消費税は課税されませんし仕入れ税額控除の対象にもなりません。これは、裏を返せば給与等の見返りでない役務の提供を受けた形であれば、仕入れ税額控除の対象になるということです。

そう、労働力を派遣や請負、別の事業者に外注する形にすれば、仕入れ税額控除の対象にできるわけです。仮にある正規社員の給与と非正規社員(派遣社員)の消費税込の費用が同じであり、能力的にも同じであれば、非正規社員(派遣社員)に切り替えた方が、消費税分仕入れ税額控除できますので、その会社が納税すべき消費税は少なくなります。現状はまだ消費税率5%ですから、それほど大きなメリットにはなっていない面もありますが、10%、15%、20%というように税率が引き上げられていった場合には、経営戦略上も無視できないものになる可能性があります。

現状でもこれを使った脱税などもあるようです。例えば、派遣子会社を設立し、そこから派遣されたように装うわけです。資本金が1千万円に満たない法人は設立後2年間は売上高の如何にかかわらず消費税納税が免除されますので、例えば、派遣会社の設立と閉鎖をめまぐるしく繰り返すやり方をとるわけです。

正規雇用よりも非正規雇用の方が人件費を圧縮できかつ固定費から変動費に変えてしまえるところが大きいとしても、さらに節税にも通じるとすれば一石二鳥です。

また、社員として扱ってた人を、独立させ仕事は従前と同じようにさせるのですが、外注という形にするパターンもあります。

消費税は、企業経営者にそのような行動を起こさせる動機にもなりえます。税率が上がればなおさらです。

かつて、日経連(2002年に経団連と合併して現在は日本経団連)が『新時代の「日本的経営」』(1995年)という報告書を公表したらしいのですが、それによれば、戦後日本の経済成長を支えた終身雇用・年功序列を基調とした日本的経営モデルは再検討されなければならず、企業の従業員は以下の3タイプに多様化されるべき、と主張されていたようです。

①「長期蓄積能力活用型」(幹部候補生)
②「高度専門能力活用型」(スペシャリスト集団)
③「雇用柔軟型」(必要に応じて容易に増減できる労働力)

①は一部のエリートで正規社員です。②はいろいろな雇用形態が考えられます。正規社員の場合もあれば契約社員の場合もあるでしょう。③のその他大勢の中には非正規社員が多く含まれることになるのだと思います。1999年に原則自由化され、2003年には製造業での派遣労働者を解禁した「労働者派遣法」は、まさに上記報告書のシナリオに沿って展開されたもののようです。

派遣労働者への切り替えが消費税の節税にも通じるという点も、経営側の動機付けを多少なりとも高めたことは確かでしょう。

以上、消費税増税は弱者をますます窮地に陥れる可能性があるものですから、財政再建のためとはいえ「まずは税率引き上げありき」という話ではないと思います。

なお、1%を地方税にしたところはうまいなーと思います。地方自治体の首長も消費税引き上げに対する反対をほとんど表明していない気がします。

今回は触れませんでしたが、消費税を福祉目的税化するという議論にも注意が必要です。聞こえはいいのですが、現状の消費税で社会保障関係費をカバーできないわけですから、目的税にしますとかえって増税がしやすくなるはずです。社会保障関係費は一般会計のままで別勘定にしない方がいいと思います。

また、今回は消費税の歴史にまで触れることはできませんでしたが、売上税や消費税というのは、ほんとうに不純な動機でできた制度なんだなと思います。結局、とりやすいところから取るということだと思います。

まずは、消費税という間接税の本質を踏まえ、軽減税率や非課税項目にも十分な配慮をし、他の直接税とのバンランスも考え、妥当な制度設計を議論するのが先で、税率を引き上げるべきか否かはその後の議論です。菅直人首相も後で苦しい言い訳をしていましたが、最初に野党である「自民党の10%案を参考にする」といってしまいましたので後の祭りです。しかも民主党内で十分に議論もしていない段階でしたからどうかしてます。

もう少し前向きな議論がしたいものですね。なお、誤解なきよう、私は特定の政党に思想的に肩入れしているということはまったくありません。念のために。

私も自営業者であり、人件費比率の高い業種で、消費税の負担も結構ありますので、気になる議論だったというだけです。

では(^E^)
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